典座(てんぞ)

こんばんは。かめも食堂 膝行族 ハラダ です。 ちょっと記憶(出典)が定かでない例えを 挙げて申し訳ないのですが、書いてしまいます。 禅と馴染みやすいと言われている 中国古書「荘子(そうじ)」だったか、 はたまた曹洞宗開祖 道元のお弟子さんが記した 「正法眼蔵随聞記」だったか...スイマセン。 曹洞宗の修行の役割りに 「典座(てんぞ)」と言われるものがあるそうです。 修行僧が、修行僧たちのために、 お食事を準備する係が典座とのこと。 ここからが例え話しへ... ある時、主人公(孔子?道元禅師?)が港に降り立ったとき、 街の市場で食材を探している年配の修行僧にであったと言います。 主人公は、その老修行僧に何をしているのかと尋ねます。 そこで老僧侶は、自分は禅寺の典座である。 その典座の役目を何十年もしている。 いい食材を見つけてお寺に帰るのがたのしみじゃ、 と応えます。 それに対し、主人公は何十年も典座をしているのか、 ちゃんと修行ができていないのではないか、と応答します。 それに対し、老修行僧は「なにを言うとる若者よ。 典座の中にも修行があり、それを修めることが行である」 と応え、 「夕飯の準備があるでの。またの」と去っていったと言います。 これを受けて主人公は、自らの修行に対する 考えの至らなさを反省したということです。 僕にとって禅宗の教えの中で、 印象に残るものがひとつあります。 それは、 「動中の静」 というもの。 所作ひとつひとつの中にも、静かな瞬間を見つけ、 いまここを味わうものと、今のところ受け止めています。 たとえば急いでいて、手紙の宛名を雑に書いてしまっても、 節約できる時間はほんの数分。ならば、気を落ち着かせて 宛名を書いた方がよい時間を過ごせるような気がします。 日常生活でも、(もちろん難しいですが) ちょっと気持ちをこめられる瞬間はあるものですね。