「空(くう)」
こんにちは。かもめ食堂 膝行族 ハラダ です。
暑かったり、寒かったり、こういう季節に思い出す本が一冊あります。
出先からではありますが、空き時間にちょっとアップします。
ちょこちょこ春風ブログに書かせていただいている、
ベトナム禅僧 ティク・ナット・ハン老師(臨済宗)の
THE HEART OF UNDERSTANDING
commentaries on the Prajnaparamita Heart Sutra
一部の宗派では読まれないそうですが、
「般若心経」のハン老師の解釈本です。
ハン老師は詩人でもあるため、たとえが興味深いことが多いです。
この本ではこのような解釈から入ります。
--要旨--
もし、あなたが詩人だとしたら、
一枚の紙の上に、雲が浮かんでいるのが見える
という、わたしのたとえに同感してもらえると思います。
雲がなければ、雨もなく。
雨がなければ、木々が生えることもなく。
そして木がなければ、紙ができることもないのです。
だから、わたしには雲と紙に関係性 ( inter-are ) が見るのです。
紙をもっともっと深く見てみれば、
そこには、太陽の恵みも感じます。
太陽がなければ、森が育つことはできません。
ただの薄い紙ですが、
そこにはこの世の中のすべてが含まれているのです。
--終了--
なぜ、日本語で読める般若心経を、
わざわざ英語で、外僧から学ばなければならなかったか。
ぼくにとって 「空(くう)」 の概念がわからなかったからです。
ハン老師は、上記の要旨を踏まえて「空」を述べていきます。
--要旨2--
般若心経の「空」は、要旨で述べた雲と紙の関連性を、
いっさい無きものと考える捉え方もあるようです、深く見ていきましょう。
「空」とはなにか。
" 空とは、なにかが欠けている状態だと思います "
(To be empty is to be empty of something.)
たとえば、グラスに水をいっぱいためて、それを指して、
「 これは空っぽですか? 」
と聞いたらば、あなたはきっと、
『 いいえ。水でいっぱいです 』
と応えるでしょう。
では、グラスの水を捨ててしまって、ふたたび、
「 これは空っぽですか? 」
と聞いたらば、あなたはきっと、
『 はい。空っぽです。 』
とお応えになるでしょう。
さて、"からっぽ" とは何をさしてそういうのでしょう。
グラスの中身は、まったくのからっぽにはならないと思うのです。
あなたが からっぽ の意味を腑に落とさない限り、
からっぽという言葉は意味をなさないと思うのです。
水がなくなったかわりに、グラスは空気で埋められています。
観自在菩薩がこの世は一切 空である、
とおっしゃるとき、
" 空とは何だろう? "
と改めて聞き直す必要があるのです
--終了--
iPhoneアプリのkindleで、本をダウンロードして、
出だしだけ読んでいるだけなので、かじり読みでm(_ _ )m
ハン老師は「空」は一切ないものをさすのではなく、
一枚の紙でさえ、太陽とつながっているように、
すべてのものの内在に、すべてのものが介在し、
それは引き継がれていくのです、
と締めていたと記憶しています。
いわゆる、「無常観」とは違う捉え方です。
すべてのものが関連しあう ( inter-being ) が
ハン老師の教えの 核 です。
無常 emptiness か 関連 inter-being か。
どちらかに固定してとらえてもいいでしょうし、
むしろ、時々で都合のよいようにとらえてもいいと思うのです。
そのようなことを感じた、きょう、このときです。

御縁感謝